近況報告などなどなど
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えー。
お怪我なされた… riffraff さん。お大事に!!!
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@Hannibal さん
二針縫っただけですのでたいした事はありません。
それより眼鏡が注文品ですので時間がかかりますし、医者に行かなければなりません。
医者に行けば、眼内レンズの話になりそうなので時間がかかります。
いずれにせよ怪我が治ってからですので、その間は間に合わせの眼鏡で代用、テキストの精読はひとまずお預けです。
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「シタキ」のサヤサヤ
上代における「シタ」の語義として「上下の下」ではないものを探索しています。
出発点として次を据えるのは良い考えなのかもしれません。
下檜山
下逝水乃
上丹不出
吾念情
安虚歟毛「下逝水乃」の序として「下檜山」が使われているわけです。同音「シタ」で引き出されています。
音は同じですが、
「下檜山」の「下」の意味は、「上下の下」ではなかろうというのが私の感じかたです。「下檜山」の「檜山」や「檜原」は万葉歌にまあまあ登場していますので、まあ間違いようがありません。
その「檜山」に、わざわざ「下檜山」と「下」がついている……
これが例の「下木」の「下」と同じ意味であるほうが自然なのではないだろうかと思うのです。
暫定的に「光輝く・明るい・赤」などの意味を持っているのではないかと。
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お勉強。
■奥田重俊先生退官記念論文集「沖積地植生の研究」,157-172,2001
吉野川中・上流域の植生と景観
中村幸人・村上雄秀
作新学院大学地域発展学部
(財)国際生態学センター※植生を是非ともに調べたかった理由。ネット上に「吉野国栖 の歌における【冬木】は【柊】のことだ」と主張するサイトをみつけたため。
※ヒイラギを使う民俗が、吉野では他の樹木で代用されているらしいが…… はて ……
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最近ぶったまげた件について以下に。
【前振り】
■中学生でも解ける東大大学院入試問題(76) - 東久留米 学習塾 塾長ブログ( https://blog.goo.ne.jp/0424725533/e/5861a1f5ca2ee8c8f38224a83d2cb197 )
【本題】
■応用問題
「6本の直線を一筆書きで引いて、等間隔に並んだ2×2×2のすべての格子点を通せ」(3次元空間バージョン)■参考?
The n X n X n dots problem: minimal number of straight lines (connected at their endpoints) required to pass through n^3 dots arranged in an n X n X n grid.
( http://oeis.org/A225227 )《q》For n=2, a(2)=7. You cannot touch the 8 vertices of a cube using fewer than 7 straight lines, following the "Nine Dots Puzzle" basic rules.《/q》
には反例があります。【本当に!】
For n=2, a(2)=6
つうことです。■後記
以上、ネットでみかけて、最近ぶったまげたネタです。なお、反例は中学生でも納得できます。
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交差配列法(chiasmus)の例を旧約聖書から見いだすときに、私のような素人にも大いに参考になるのが以下です。
■西洋の音楽と歴史、詩編唱と最後の晩餐
( https://tokino-koubou.net/classic-history/greece/hwm1-4.htm )上から旧約にあまたあるchiasmusのなかから選ばれた典型例を引用すると以下のようになります。
1.7日間洪水を待つ
2.箱船に入る
3.箱船の扉を閉める
4.40日の洪水
5.水かさ増える
6.山々まで覆う
7.150日間増え続ける
X.神はノアと獣たちの船を思い出し
7.150日間水が減り
6.山々の頂が現われ
5.水が止まった
4.40日が過ぎ
3.ノアは扉を開いた
2.カラスと鳩を放った
1.さらに7日間水が退くのを待つ――
新約ではマタイにもchiasmusがみられるとのことですが、私の興味はむしろ最初の福音書、マルコにみられるサンドイッチ構造です。
フレーミングの見地からすると、最も外側の枠は
1:鳩がおりてきてイエスが神の子であることが明らかになる。
1':ローマ兵が「やはりイエスは神の子だったのか」とつぶやく。
の枠でしょう。サンドイッチのパンなのですね、すなわち、マルコの言いたかったことの眼目のひとつが、〔イエスは神の子である〕と。
そういう修辞をしているわけです。マルコのサンドイッチ構造は、ネット上でも様々な解説記事があるので興味深いところです。
無論、福音書でのマルコのサンドイッチは、旧約でのchiasmusを意識したものです。
――
私はこのchiasmusなりサンドイッチなりについて、ヘブライの人たちの修辞って面白いなあ、としか考えてきませんでした。
それが昨日、それどころではないと思い至ったのです。
マルコによれば、イエスの宣教開始の第一声は次のようなものだったとしています。
「時は満ちた、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信ぜよ」(『口語訳聖書』)
一方、マタイでは
「悔い改めよ、天国は近づいた」(『口語訳聖書』)となっています。
これは、マルコにおいてサンドイッチないしchiasmusが使われていると見るべきと思い至ったのです。
すなわち。
A1.時は満ちた
B1.神の国は近づいた
B2.悔い改めよ
A2.福音を信ぜよ
という構造であって、マルコのB1B2のみをマタイは伝えていることとなります。
BがAによってサンドイッチされています。
Bこそが福音の本体であり、このBを強調するために、さらにマルコはAで挟み込んだことになります。
再言すれば、B1.神の国は近づいた
B2.悔い改めよが福音であって、
その福音を受けてがどう扱うべきかについてAで述べています。A1.時は満ちた
A2.福音を信ぜよ――
B1.神の国は近づいた
B2.悔い改めよこの訳については、ある意味において、Aから切り離して訳し直すべきと私は考えます。chiasmusなりサンドイッチなりに負けてはいけない、引きずられてはいけない、そのように考えます。
B1.神の国は近づいた
の訳は、「時は満ちた」に引きずられた訳と私は考えます。
(実際にはアラム語で)
B1'.神の国は近い
だったのだと。
これが最初に宣教すべき福音の本体の前半部ですね。そして、福音の後半部では、
B2.悔い改めよ
に替えてB2'.(からだごと)向きを変えなさい
というのが推定されるアラム語での表現だったとする学説があり、私もそれを支持したく思います。
「反省して心を入れ替えて、今までの人生を悔い、今後の人生を改めろ」などというギリシャ語訳に負けてはならないと思うのです。誤訳と思えばよい。イエスが意気込んで最初の宣教で強調した福音を、ここに復元するならば
B1'.神の国は近い
B2'.(からだごと)向きを変えなさい、(視点を変えなさい)となります。
死後の世界としての天国やら、世界終末後の神の国やらの話ではなくて、
【今ここにある神の国、それを見なさい、見る方向を変えなさい】
これが、イエスが最も言いたかったことなのですね。まあ、そうは言っても、私のような凡人には、神の国なぞ見えないわけで、そんな人々がマルコ伝にも多数登場し、イエスに尋ねているわけです。
「神の国ってどんなものなの?」
人間イエスはあれやこれやと喩え話を展開するのですがイヤハヤなんとも……