謎解き!『古事記』中巻歌謡48



  • @Hannibal さん
    承りました。くれぐれもご無理をなさらないよう。
    こちらは恒例の渡り鳥。来週半ばゆっくりと冬営地に向かいます。


  • Global Moderator

    回復祈願

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    題「ヤマネおじさん」



  • 回復祈願

    0_1543817587338_孫たちの応援@@@@.jpg

    題「孫たちの応援」
       ソムさん 切り貼りをお許しください m(__)m



  • 皆様、応援を有難うございます。
    (^ω^)
    皆様、応援を有難うございます。



  • 今日は最初の突破口について書きます。

    【志多紀】が突破口となりました。

    権威ある「精選版日本国語大辞典」による解説をみてみます。

    引用開始
    した‐き【下木】

    ① 林の下などに生えている背の低い木。
    ※古事記(712)中・歌謡「品陀(ほむた)の 日の御子 大雀(おほさざき) 大雀 佩かせる太刀 本つるき 末振(ふ)ゆ 冬木の 素幹(すから)が 志多紀(シタキ)の さやさや」
    引用終了

    私には〈志多紀〉が《下木》とはどうしても思えませんでしたので、いつも気になっておりました。

    そんなおり、下記の記述が偶然に目に止まりました。

    日本書紀歌謡108「向つ峰に
    立てる夫らが
    柔手こそ
    我が手を取らめ
    誰が裂き手(・我佐基泥)
    裂き手そもや(佐基泥曾母野)
    我が手取らすもや」

    《裂け手》を〈佐基泥〉と書いています。手がササクレだっている、ひび割れているというニュアンスです。〈基〉は乙類のキであることがテーマです。

    上代特殊仮名遣を踏まえながら細かく言うと、四段活用の他動詞〈割く〉の連用形でのサキでは、キは甲類になりますが、〈佐基泥〉の〈基〉は乙類ですから、〈佐基泥〉の〈佐基〉は他動詞〈裂く〉の連用形ではありません。では何か。下二段自動詞〈裂け〉の連用形では、キ乙類ではなく、ケ乙類なので、これでは(ストレートには)不味いことになります。他動詞〈裂く〉又自動詞〈裂け〉の、どちらでもないことになります。

    解決方法がひとつあります。エ段乙類はイ段乙類で書かれることもあった、と考えることです。

    似た事情を抱えているであろう例があります。

    古事記歌謡1
    「八雲立つ
    出雲八重垣
    妻籠み(都麻碁微爾)に
    八重垣作る
    その八重垣を」

    マ行下二段活用の他動詞「籠む」の連用形はメ乙類のはずですが、ミ乙類の微を使っています。(自動詞「籠む」の連用形ではミ甲類です。甲類と乙類とを間違えてしまうことはまずありませんし、文脈上では、妻を籠むわけですから他動詞のはずです)

    これに勇気を貰えば、

    〈志多紀〉は、
    シタケ2
    つまり、ケ乙類が標準なのにキ乙類で表記されている可能性の道が開けることになります。

    《下木》の呪縛から離れてこの歌謡の再度の検討を試みる価値はありそうと考えました。

    いろいろと試行錯誤した結果、私は現代方言にある《シタケ》に辿り着きました。

    シタケとは、概ね、春から夏にかけて吹く東ないし南の風のことです。群馬と茨城と神奈川とにシタケないしはその変形が分布していることがわかりました。他の地方ではどうなのか調べはついていません。地域ごとに味付けが微妙にことなるようです。季節風ですが風向きや季節が微妙にずれます。
    何はともあれ、【冬ではない】ところに興味が引かれます。

    布由紀能 須加良賀
    志多紀能 佐夜佐夜

    冬樹の須加良賀
    シタケのさやさや

    もうちょっと調べてみましょう。

    シタケの語源を推理してみます。

    関連しそうな論文があります。

    「上代文学に表された「死」のとらえ方についての考察」加藤明;
    東京女子体育大学・東京女子体育短期大学紀要 第45号 2010年

    https://ci.nii.ac.jp/els/contentscinii_20181129220657.pdf

    論文から学べば豊富な事例からみるに、〈シ〉は《風》であり《息》であり、抽象的には【生命の息吹/流れ】というコアイメージがあると推理できます。

    こうした考えを深めたのちに本歌謡の他の部分とも併せて調べわかってきましたが、
    志多紀能 佐夜佐夜
    の〈志〉は《風》でもあり《生命の横溢》でもあるのです。

    話を戻してシタケの語源にもどります。

    タケは、カ行下二段活用の自動詞〈たく【長く・闌く】〉の連用形です。

    〈風〉につくのですから、《強くなる》という意味でしょう。

    そもそもシタケは、季節風です。季節風には地域や時期に基づいた生活感あふれる名前がつくことが多いですが概ねその風が強勢であるときの特徴が名に込められているケースが多いです。

    もっともシンプルではありますが、風長け(シタケ)もそうした風の名の一種でしょう。

    本歌謡では、表面的には、冬と対位した春の風として歌われているに違いない、歌謡なのだから……と考え付いたわけです。

    以上が最初の突破口です。

    第二の突破口が現れて、最初の突破口に更に重層的な意味を与えることになるのですけれども…その話はいづれまた。


  • Global Moderator

    @Hannibal さん

    さやさやするものは何か? 「志多紀=季節風」説ですね。
    冬木と来て下木と来る場合のイメージは、比較的大きな木があって、その根元に小さな木があるということでしょうか。例えば堂々とした日御子とその元でさやさやする人民ということなのでしょうか。
    季節風と解釈した場合には、もっと大きな一年のめぐりを背景にした対比のイメージが出てきそうです。

    繰り返しの「おほさざき」とは何でしょうか?



  • @Hannibal さん
    余談です
    古事記の「地の文で品陀」:「歌で本牟多」、「地の文で大雀」:「歌で意富佐邪岐」
    使い分けは理解しているつもりですが、本当に同じ人物を指しているのかつい疑問が湧いてきます。
    脱線ですが、初期仏典(プラークリット)では散文と韻文の成立時期の前後、対応の在り方が往々にして論争となります。素人考えですが、古事記にも時に同様の問題が有るのではないかと考える時があります。



  • お返事が遅れて申し訳ありません。

    @ソム さん
    お目が高い! のひとことです。

    私の見るところ、この歌謡は(中近世以降の序破急ではありませんが)三段構成になっています。

    原文に則してみますと、三段は次のように分割されます。

    第一段
    本牟多能比能美古
    意富佐邪岐

    第二段
    意富佐邪岐波加勢流
    多知母登都流藝須惠
    布由

    第三段
    布由紀能須加良賀
    志多紀能佐夜佐夜

    第一段ではこの歌謡の主題を掲げます。
    第二段では主題を展開します。
    第三段では、詩的な情感を込めて第二段を更に展開し、もって立ち返って主題を称揚します。

    この三段構成の接点をあらためてみていきます。

    第一段
    本牟多能比能美古
    意富佐邪岐

    第二段
    意富佐邪岐波加勢流
    多知母登都流藝須惠
    布由

    第三段
    布由紀能須加良賀
    志多紀能佐夜佐夜

    同じ音の並びが繰り返されるところの中央で段の区切りが発生しています。

    恐らくは、本来では歌い手は3名いる、といったところではないでしょうか。

    Aが主題を歌う。するとBがAの歌の末尾を拾い、自分の歌の冒頭の歌い出しとする。CはBの歌の末尾を拾い、自分の歌の冒頭の歌い出しとする。

    こうした現代で言うところのシリトリに近い遊戯が想定されます。

    「繰り返しの『おほさざき』とは何でしょうか?」という問いにお答えする準備が以上で整いました。

    『おほさざき』は『大雀命(おほさざきのみこと)』でして、後に仁徳天皇と呼ばれることになった大王です。『ホムタ』は、『品陀(ほむた)命』でして、後に応神天皇と呼ばれることになった大王です。この二人の大王の、大王位の連続性を称揚する歌謡となっています。

    歌謡は三段構成となっており、各段の接合点では、歌謡が重視するポイントを重ねて歌うようになっています。

    意富佐邪岐と布由とが歌謡の重要なポイントとなります。

    いずれお話することになる第二の突破口の発見により、上の説明の裏打ちができるようになります。今回はここまでです。

    ===

    『例えば堂々とした日御子とその元でさやさやする人民ということなのでしょうか。』とのこと、なるほど着眼点が素敵だと思います。驚きました。私が知る限り、新しい切り口です。

    「なにが」さやさやするのかというと、これは、第三段にも第二段にも歌われていますので、いずれ私見をお話することになるでしょう。

    ===

    @riffraff さん

    そうなのです!
    使う表記が地の部分と歌謡部分で明らかに異なる場合がありますね。
    何故なのかについては、研究者の皆様がおおかた論議しつくしているに違いないとは存じますけれども、不勉強な私には、よくわからないところです。

    古事記が編まれた時代には、吉野系の氏族がそこそこ力を持っていたようですので、彼らがなんらかの形で家伝を表記したものを大王家に提出し、それらの一部が改変されながらも、古事記の記事の流れの中に採用されたのではないかと推測しています。目的は応神⇒仁徳の皇位継承の正統性を持ち上げることなのでしょうか。
    天武期に一定の力を有した吉野勢が自らの祖先をアピールしつつ天武の皇統を称えるオハナシにもなっているのでしょう。



  • @Hannibal さん 更なる脱線です。
    応神:品陀  天智:葛城 弘文:伊賀(大友) <>:大津
    仁徳:大雀  天む:大海人          <>:草壁

    名負いの皇子とそうでない皇子。単に畿内の地名に不案内なだけかもと思うのですが、昔からこの対比が気になっています。



  • @Hannibal さん。更に更なる脱線を三つほど:
    ❶歌の掛け合いと「ささぎ」で昔読んだ論文を連想しました:金関恕さんの「考古学から観た古事記の歌謡」です。ご参考になれば
    https://opac.tenri-u.ac.jp/opac/repository/metadata/1548/GKH014502.pdf

    ❷皇子の名前の続きです。
    仁徳:大雀
    雄略:大長谷若建
    武烈:小長谷若雀

    大雀ー子雀
    大長谷若ー子長谷若
    の対応があるようなないような。王統断絶を意味する緯学的箴言が名前にこめられているような気もします。

    ❸「吾先見問、故吾先爲名告。吾者、雖惡事而一言、雖善事而一言、言離之神、葛城之一言主大神者也。」
    神を顕現させてしまった王:ここだけではなく雄略天皇の条は落日の王として緯学的に読み直すこともできそうです。
    翻って仁徳天皇の条は昇日の王として、光武帝劉秀と対比させているのかも。
    光武帝と言えば天武天皇のアイドル。

    思い付き揣摩臆測の山です。(;'∀')



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