交差配列法(chiasmus)の例を旧約聖書から見いだすときに、私のような素人にも大いに参考になるのが以下です。
■西洋の音楽と歴史、詩編唱と最後の晩餐
( https://tokino-koubou.net/classic-history/greece/hwm1-4.htm )
上から旧約にあまたあるchiasmusのなかから選ばれた典型例を引用すると以下のようになります。
1.7日間洪水を待つ
2.箱船に入る
3.箱船の扉を閉める
4.40日の洪水
5.水かさ増える
6.山々まで覆う
7.150日間増え続ける
X.神はノアと獣たちの船を思い出し
7.150日間水が減り
6.山々の頂が現われ
5.水が止まった
4.40日が過ぎ
3.ノアは扉を開いた
2.カラスと鳩を放った
1.さらに7日間水が退くのを待つ
――
新約ではマタイにもchiasmusがみられるとのことですが、私の興味はむしろ最初の福音書、マルコにみられるサンドイッチ構造です。
フレーミングの見地からすると、最も外側の枠は
1:鳩がおりてきてイエスが神の子であることが明らかになる。
1':ローマ兵が「やはりイエスは神の子だったのか」とつぶやく。
の枠でしょう。サンドイッチのパンなのですね、すなわち、マルコの言いたかったことの眼目のひとつが、〔イエスは神の子である〕と。
そういう修辞をしているわけです。
マルコのサンドイッチ構造は、ネット上でも様々な解説記事があるので興味深いところです。
無論、福音書でのマルコのサンドイッチは、旧約でのchiasmusを意識したものです。
――
私はこのchiasmusなりサンドイッチなりについて、ヘブライの人たちの修辞って面白いなあ、としか考えてきませんでした。
それが昨日、それどころではないと思い至ったのです。
マルコによれば、イエスの宣教開始の第一声は次のようなものだったとしています。
「時は満ちた、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信ぜよ」(『口語訳聖書』)
一方、マタイでは
「悔い改めよ、天国は近づいた」(『口語訳聖書』)
となっています。
これは、マルコにおいてサンドイッチないしchiasmusが使われていると見るべきと思い至ったのです。
すなわち。
A1.時は満ちた
B1.神の国は近づいた
B2.悔い改めよ
A2.福音を信ぜよ
という構造であって、マルコのB1B2のみをマタイは伝えていることとなります。
BがAによってサンドイッチされています。
Bこそが福音の本体であり、このBを強調するために、さらにマルコはAで挟み込んだことになります。
再言すれば、
B1.神の国は近づいた
B2.悔い改めよ
が福音であって、
その福音を受けてがどう扱うべきかについてAで述べています。
A1.時は満ちた
A2.福音を信ぜよ
――
B1.神の国は近づいた
B2.悔い改めよ
この訳については、ある意味において、Aから切り離して訳し直すべきと私は考えます。chiasmusなりサンドイッチなりに負けてはいけない、引きずられてはいけない、そのように考えます。
B1.神の国は近づいた
の訳は、「時は満ちた」に引きずられた訳と私は考えます。
(実際にはアラム語で)
B1'.神の国は近い
だったのだと。
これが最初に宣教すべき福音の本体の前半部ですね。
そして、福音の後半部では、
B2.悔い改めよ
に替えて
B2'.(からだごと)向きを変えなさい
というのが推定されるアラム語での表現だったとする学説があり、私もそれを支持したく思います。
「反省して心を入れ替えて、今までの人生を悔い、今後の人生を改めろ」などというギリシャ語訳に負けてはならないと思うのです。誤訳と思えばよい。
イエスが意気込んで最初の宣教で強調した福音を、ここに復元するならば
B1'.神の国は近い
B2'.(からだごと)向きを変えなさい、(視点を変えなさい)
となります。
死後の世界としての天国やら、世界終末後の神の国やらの話ではなくて、
【今ここにある神の国、それを見なさい、見る方向を変えなさい】
これが、イエスが最も言いたかったことなのですね。
まあ、そうは言っても、私のような凡人には、神の国なぞ見えないわけで、そんな人々がマルコ伝にも多数登場し、イエスに尋ねているわけです。
「神の国ってどんなものなの?」
人間イエスはあれやこれやと喩え話を展開するのですがイヤハヤなんとも……